(おことわり)あくまでゆがんだアンテナ持ちの勝手なひとりごとです。
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犯罪になるかならないかはさておき、被害者と加害者が存在するとする。
被害者はたぶん一生加害者のことを忘れないし許さない。
忘れたつもりでもふとしたことで思い出し(それが無意識であれ)苦しむ。
いっぽう加害者側は被害者側に対する罪の自覚がなければそれまでだし、
まして「正義」「ゲーム」みたいに思ってる場合はどうしようもない。
ただ多少なりとも罪の意識があれば、おそらく加害者側も一生忘れないし苦しむ。
もっともそれに耐えられず?必死に己を正当化しようとしたりあたかも被害者側に
「こそ」非があるように考えがちである。
ただ思うのは、被害者も、加害者も、だからこそ潰れていはいけない、ということ。
遠い昔、自分は両方(になったつもり)で潰れてしまったし、現在も多少なりとも
どちらがわの記憶に対しても、憎しみあり、負い目あり、苦しみありの状態である。
(しかもそれを(自分が潰れたことに対する)言い訳として利用しているところ大)
たぶん自分が死ぬまでこの思いは消えないし、むしろ時がたつほどに深く強くなる
のではないかと思っている。
それならば苦しみを断ち切るため自分自身を消し去るしかないのではないか?
そんなことも考えたことはあった。でもできなかった。
理由は簡単。自分に「覚悟」が足りないから。
故にずるずると、生ぬるい苦しみを言い訳に、ずるずると、思いきれないでいる。
そしてたぶん死ぬまで覚悟を決めることはできないだろう。
そしてたぶん死ぬまでずるずると悩み苦しみずるずるとしてしまうだろう。
だけど本当はそれではいけない。特に被害者の方。
加害者に復讐すれば苦しみから解放される。たぶんそれは正しい。
だけどそれよりも自分自身が幸せになること、それを第一に考えてほしいと思う。
しょせんは理想論。きれいごと。理屈で感情の収拾がつけば何の問題もない。
それでも被害者は被害者、加害者は加害者、それぞれを切り離して考えてほしい。
被害者感情をふりかざせば加害者を潰すことができる(かもしれない)。
だけどそれでは(加害者側の自覚の有無は関係なく)被害者も不幸だ。
加害者に復讐することだけが被害者の幸福みたいな人生はむなしい。
自分はそのことに気づく(フリする)まで時間がかかりすぎた。
いっぽう加害者の方は、いくらごまかし正当化しても、己の罪の意識や他人からの
心無い言動に少なからず悩み苦しみ惑わされれつづけるだろう。
潰れるフリをするのは簡単。そうやって同情ひこうとするのも簡単かもしれない。
だけどしょせん加害者は加害者。その事実は消えないし、消すことはできない。
おそらく前を向いて生きようとすればするほど、自分自身の中の罪の意識や他人の
指摘によりむきだしになり足をひっぱる要因になるだろう。
だけどそれでも前を向いて生きたいと思っている加害者を加害者というだけで
(野次馬的正義感みたいなものをふりかざし)徹底的に潰しにかかる社会・・・
昔もそうだったかもしれないが、現在はとくにその傾向が強い気がする。
そのことが被害者も加害者も生きにくくしているのではないだろうか?
被害者は被害者として一生苦しみながら生きろ。
加害者は加害者として一生苦しみながら生きろ。
なんとなく、社会全体がそんなふうになってしまっている気がする。
個人的にはそのことのほうが恐ろしい。
被害者も前を向いて幸せに生きることができるはず。
加害者も前を向いて幸せに生きることができるはず。
被害者も加害者もそうであってほしいし、そんな社会であってほしいと私は思う。
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以上、あくまで超ゆがんだアンテナもちの勝手なひとりごとです。